2011年7月18日月曜日

再度ことばカフェに向けて

吃音者とそうでない人の違い

 そんなこと 考えておりました。昨日 成人の吃音の方の治療をいたしました。そこで、一つおしえられました。

よく言われることですが、本当だな と実感しました。それは、吃音者は
すべて(或いは多く) 吃音をもとにして、この世を この世のできごとを検索し、考え  感じ  行動する人なんだな  ということです。

たとえば ある宗教の信者  その人はその教義をベースにして ものごとを考え 判断し  行動するでしょう。その人は自分の心を神 仏
と一致させようと努力するでしょう。

吃音者にとって 吃音とは あたかも 自分をしばり、操作する
ベースとなるもの  あたかも神みたいな存在  自分がえらんだのではないいのに。  そんな気がしました。

そうではありませんよ。吃音はあなたの心、脳の働きのごく一部。
吃音は あなたが、操作するもの、出来るもの。あなたの心を吃音の恐れ、おびえからとき放し、あるがままの心で生きられれば。

その一つのヒント。それは、例えば電話。電話でどもるかもしれない。
いや、ひょっとするとどもらないかもしれない。その不確実性。
これが吃音の本体。いつもどもると決まっていれば ことはたやすいのに、ときに電話でどもらないときもある。つまり、本当には予期できない。だから、予期不安がでてくる。どもるかもしれない・・という。

電話にでるのが苦手なら、そして特に身体が疲れている時、寝不足の時
など コンデイションが悪いとき、そんなときは どもってあたりまえ。どもってなにが悪いのでしょう。

そして、どもるのを前提で電話する。電話にでる。だってどもるのは自然なことだから。(続く)