2011年7月20日水曜日

私とことば ことばの世界にとらわれて

 私が言語聴覚士  昔で言うST(speech therapist) アメリカでは、スピーチ&ラングェジ パソロジスト になろうと思ったのは、もう35年
以上前になる。私が住んでいた東京都多摩市の団地のすぐそばに、重症心身障害児(者)施設 島田療育園があった。そこのこどもたちは、様々は障害のため、殆どすべてといってよいが、ことばを発することが出来なかった。
 中には、アペルト症候群のため、口蓋列があっても当時それを適切に手術して、言語訓練にまわす流れがまだ十分には出来ていなかった。重度の自閉症や、測定不能の知的障害、運動障害、行動障害、視覚障害、聴覚障害を合併した、重いこどもたちが、教育不能ということで、施設に預けられていた。当時、島田療育園では、こうしたこどもたちへのかかわりを療育と言っていた。医療の療と保育の育である。
 こうした関わりは、主に生活習慣、排泄や食事の訓練に向けられ、人と人とのやりとりや、興味、関心を引き出し、関わりの力を育てる、いわゆるコミュニケーション指導は殆ど行われていなかった。
  その中でも、もっと小さい時から、豊かなコミュニケーション環境においてやれば、おそらく発語、ことばを使ってのコミュニケーション
が可能だったのではないかと思わせる子どもが何人かいた。
  とても残念だった。なんとかしたかった。この子のことばを聴きたいーそう思った。それが、言語聴覚士への道につながったのである。
 こどもたちのお絵かきや音楽などのアートの世界ではなく、ことばの世界に興味を抱いたのは、私にとってことば、ことばの世界がとても大きなものだったからであろう。
  ことばとこころ、私はこころに浮かぶ想念すべてをことばだ正確に、誤りなく表現したかった。それが、人に誤解されない、自分の心を伝える武器であると子ども心に感じていたようである。
 それは、おそらく、自分が誤解されている、という感覚、自分の思いが伝わらないという苦しい感覚を小さい頃から、強く抱いていたからであろう。
 そして、この思いはっもう一方で私に学者への道に進ませた大きな
原動力となった。ことばによって正しく、正確に表現する、沢山の語彙を駆使し、沢山のレトリックを用い、自分を意のままに表現する能力。それへのこだわりが私を大学の教師へと導いた真の動機であろう。
 人は劣等感の補償として、勉学するとも言われる。私はことばの表現者たらんとするこだわりが私を勉学へと駆り立てた。だが、よく考えると自分は人から理解されないものという 深い寂しさが私にあったのかもしれない。そうだとしたら、やはり劣等感の補償であろうか。
 
 私のことばへのやや異常とも思われるとらわれ、ときにこんなことも書いてみたい。なぜなら、ことばへのこだわりという点で、私もやはり
一種のことばの障害者であるのかもしれない という思いもあるからである。

  (つづく)