2011年8月9日火曜日

ことばの世界にとらわれて(2)

先回は、私が何故言語聴覚士になったのか、言語病理学者になったのか、についての出だしのような文章を書いた。今私は自分が強くことばの世界にとらわれ、この世を何とかつかみ、折り合える道を模索していることを感じる。しかし、その一方、自分の心の中の自然、そして、それに応じての外界の自然と折り合い、和解し、楽しんですらいる自分も感ずることができる。
  自然への回帰、故郷への回帰がこのように、自然に行われているのは、それだけ私が年をとったということなのであろうか。
  

私が思春期に入った頃、父は「きっこ(私の呼び名)はソフィストになる」と言って危惧していた。そして、私はそのとうりになった。
 ソフィストーーそれは知を弄ぶ者ーーという、ニュアンスとしては、貶めた言葉、唾棄すべき言葉である。私はその言葉を批判と嘆きとして受け止め、出来るだけ現実世界の中にいて、人と関わり、具体的事実を尊重し、具体的結果を上げることにも眼を向けてゆくよう努力し続けた。つまり自己満足的生き方を自分に禁止したのである。

 人に分かり易く生きること、自分の内面は内面として、ーーという生き方もまたそこにかなりの無理があったように思う。つまり、他者を満足させる、他者指向の生きかた、過剰適応の生きかたを自分に強いたことになる。安全神話である。

 その結果としての重度のうつ病。10年に亘るうつ病は 自分の生きかたが行き詰まってしまった明らかな証左であった。

 うつ病については、またの機会に書くことになろう。今はことばと自分の問題。

15歳の秋、一つ上の姉が私を家の裏山に誘った。お山で勉強しよう。姉らしい発想だな、と思った。そして山の斜面に並んで座って、教科書を膝において、近く家の屋根、遠く大磯の海を眺めた。

落ち着かなかった。小さい時から、あんなに馴染んで、触れていた自然が。木々のたたずまいが、木漏れ日のやさしさが、すべて どう感じようとしても、声をききたくても  語りかけ 触れてくる 思い、自然はそこにはなかった。そこには、自然と隔絶した 自己 があった。閉ざされた自己があった。

 それが、私の自我の目覚めであり、弧の意識の始まりであり、そして、発達的には、抽象的思考能力の表れであったのだと思う。

 16歳n時、数学の先生に、推理能力の高さ、抽象的能力の高さ 優れていることへの指摘があった。私は数学が出来ないと思っていた。先生は、特にことばの推論の能力が優れていると指摘された。

 私はああだから推理小説がすきなんだーと軽く納得したが、実はその一方で、その頃 あらゆることを疑う、自分で一から考える、自分の存在を考えること、思考することのみによって生きている実感が得られる、ある意味、存在の危機的状態に陥っていったのだとも言える。

だから、そのあがきとして、自己の中に閉塞されないように、友達と交わり、ばかげたことをして、人の笑いをとり、スポーツをし、サイクリングをし、そうして、懸命に健全さを維持し、こどもらしさをアピールし、だめな自分を演出し、と  あがいていった。

15歳の時、最愛の祖父をなくし、その学期、私の成績は飛躍的に伸びた。急な目覚めであった。それまでは、母からゆけさくと言われていたように、クラス一忘れ物が多く、宿題をしてゆかない あまり賢い子どもではなかったようである。勉強への動機づけも一切なかった。

 私はとても幸せだったから。祖父が死に、成績が飛躍的に伸び、ものを考える15歳が 私が自然と別れ、無邪気さと別れ、自分で自分の人生を引き受ける 自立のとき であった。

甘えん坊のところも持っておるのでありうが、親への依存の心は15歳でパタリと消えてしまった。むろん 食べさせてもらうなど、社会的依存は、結構長く続いていたのではあるが。

 それからの私は、外から わかりやすいように、かなりの部分をあけっぴろげに放置する一方、それへの他者の反応を読みながら調節する自己を片時たりとも手放しはしなかった。

 それが、私の自意識であり、自己であり、私の言語 であった。