2012年4月12日木曜日

臨床は、「ぞうきんがけ」のようなものである

臨床は、「ぞうきんがけ」のようなものである。  小林宏明

私は、吃音んがあるこどもの臨床について、以下の2つの経験をしたことがあります。
まず、一つ目ですが、私は、ある幼稚園に通う吃音がある子どもの初回面接を担当しました。そのお子さんは、指導室に入るなり、「こんにちは」と元気にあいさつをし、「先生、一緒に遊ぼう!」と初対面の私に対して積極的に働きかけ、1時間の初回面接の間中ニコニコしながら楽しく遊んでいました。私は、その時に、とても朗らかで楽しい気持ちになり、また指導者としての自分の有能性を感じたりもしました。ところが、その後、次回の指導の予約のための電話をすると、母親は「実は、あの後、家に帰ってくるなり、<疲れたー>と言って表情が暗くなり、すぐに寝てしまったんです。」とお話しされたのです。私は、そのお子さんが私との遊びをとても楽しんでいるように思っていたので、そのお話をとても意外に感じたことを覚えています。

 次に2つめですが、私は、ある小学校に通う吃音がある子供の初回面接を担当しました。そのお子さんは、指導室に入るなり、表情が強張った感じになり、私が話しかけても全く返事をしてくれませんでした。そして、結局、その日は私と一言もことばを交わすことなく指導室の端の方に座って一人でもくもくとおままごとをして終わってしまいました。私は、その時にそのお子さんと保護者、私の3人でじっと黙って時間を過ごすことへの居心地の悪さや、お子さんの心を開いて楽しく遊びを展開できないことへのもどかしさなどを感じました。ところが、しばらくたって次回の指導の予約のために保護者に連絡をとると、
母親から「前回、大学で遊んだことがとても楽しかったらしく、<またいきたい>と言っています」とお話しされたのです。私はおこさんが私との遊びを楽しんでいるようには思っていなかったので、そのお話しにとても驚いたのを覚えています。

 これら2つの私の経験は、子どもの行動や様子が必ずしもその時の子どもの気持ちを反映しているわけではないことを教えてくれます。そして、(1)1つ目の事例では、子どもはその後ひどく疲れてしまうような気づかいや緊張をしているのに対し、私は楽しさや自身への有能感を感じている、(2)2つ目の事例では、子どもは自分なりのやり方で遊びに楽しさを見出しているのに対して、私は居心地の悪さやもどかしさを感じているというように、その時にこどもと私がそれぞれ感じていたことにかなりへだたりがあることも興味深いところです。

 私は、これらのことから、臨床は、ぞうきんがけにたとえられるのではないかと考えています。あるところをきれいにするためには、ぞうきんで汚れを拭き取らないといけません。臨床も、これと同じで子どもの緊張や不安な気持ちを解消するには、指導者が子どもが感じているこれらの気持ちを受け止める必要があるのではないかと思っています。そして、そのように考えると、1つ目の事例では、指導者となっていたのは私ではなく、むしろ子どもの方だったのではないかと、自戒を込めて思うのです。