2012年5月19日土曜日

障碍を持った方の存在

この正月休み、中学、高校時代の現代国語担当の先生(千葉靖子先生)と東北旅行にでかけた。 もともと先生は片耳が生まれつき不自由でいらしたが、80歳になられ、もう片方の耳も相当聴力が 落ちていられるとのことであった。 補聴器はつけてみても、雑音をひろったり、ハウリングがひどくかえって聞きにくいとおっしゃっていた。 3日間おつきあいしてきづいたことがある。 年をとると、多くの人が聴力がおちる。人によっては、補聴器をつけることもある。 また、年をとると、足腰がよわくなり、車椅子を使うこともある。 メガネも必要、また 目の病気も出てくる。 認知症になったり、内臓疾患も多発する。 こうした、補助器具や認知症等の理解など、健常と言われている人々が老齢化して、 必ず最後にたどりつく地点には、多くの先天性の障害を持った方々がおられたからこその 多くの知見や理解、開発された機材などがある。 もしこうした方々がおられなかったら、この高齢化社会を迎えて、わたしたちは、ほとんど 1から、認知症とは? 運動障害とは?視力障害とは?聴覚障害とは?精神障害とは? と考え、対応してゆかねばならなかったろう。  最後にゆきつくいわゆる老人ホームでは、障碍者も健常と言われていた高齢者たちも 同じ部屋で、同じものを食べ、同じ状態で介護を受ける。 死んでしまえば、むろんのこと、そんな違いなどなにもない。 障碍を持った方々は、健常といわれる方々が最後までそれなりに生きていけるさまざまな文化、 ツールを開発する役割を持って生まれてきているのだろう。 私たちは、もういいかげん そのことに本気できづく必要があるのではないか。 そして、社会のやっかいものとしてではなく、文化の担い手として、能力に応じて ではなく、必要に応じて社会的に遇する必要があるのではないのだろうか。 そのことに気づかないかぎり 明るい社会なんて築けない。 大学に入る前に義務として、施設勤務を義務づけるくらい法改正ができないものか。 昔、びわこ学園を創設された 糸賀さんが言ったことば、  この子らに世の光を ではなく この子らを世の光に その言葉をかみしめるこの頃である。